イザベラ・バード Isabella Lucy Bird(1831~1904)はイギリスの女性探検家、紀行作家。1878年(明治11年)に来日。
来日前、エディンバラにおいて「お雇い外国人」であった Colin Alexander Mcvean(測量技師。日本で灯台の建設に携わっていたようです。)から日本の情報を得ています。
同年6月から9月にかけて通訳の伊藤鶴吉(1858~1913)を伴って荷馬と二人の馬子の一行で東京から日光、会津、新潟、山形の赤湯、秋田の大館、青森の碇ヶ関、黒石に逗留、青森から郵便汽船で函館へ渡り、北海道のアイヌ部落に長期間滞在しています。
当時の日本を鮮やかに映し出す
バードは道中で見聞したものを”Unbeaten Tracks in Japan”(1880年。明治13年。日本語訳は『日本奥地紀行』)に詳細に記録しています。
明治初期の東北、北海道の自然や人々の様子が実に生き生きと描かれています。特に当時、世界的にもそして日本国内でもよく知られていなかったアイヌの習俗について多くのページを割いています。
英語学習においては英語で書かれている日本の事象は私たちに身近な内容ということもあってか、リアリティを持って読めるので英語学習の上で非常に有効です。
バードのこの本は文体も簡潔で様々な日本の事象が描かれているため通訳案内士を目指す人にとっては日本紹介の英語力をつける上で格好の書籍だと思います。ぜひ原書で読むことをお勧めします。内容も大変面白く、140年前の日本の情景がタイムスリップしたかのように目の前に広がります。非常に楽しく読めた本です。
初めて見る外国人
本書には道中の光景、自然、習俗、働く人々や子供たちの様子がつぶさに描かれています。
その中でもバードは行く先々で出会った子供たちの様子に特に多くのページを割いています。バードが出会う日本人にとっては彼女こそが開国以来初めて見るナマの外国人ですから、投宿するたびに外国人を一目見ようと好奇心旺盛な人たちが宿に押し寄せてバードが困惑する様子が描かれています。
バード一行については当時は電信がありましたので次の目的地へ彼女たちが向かう旨が逐一報告されていたと思われます。
警察や役人が宿を訪ねて来て、パスポート等をチェックする様子が何度も描かれてます。また、中庭を挟んだ隣家の屋根に見物人が大勢登って倒壊するという珍事も描かれています。
明治が始まってまだ10年です。外国人が本当に珍しかったのでしょう。
江戸から明治へ
途中で大久保利通暗殺の知らせが入ってきますが、これを知った現地の日本人にさほどの動揺が見られなかったことなども描かれています。
東京を出ればまだ地方はほとんど江戸時代と変わらない様子だったと思われますが、時代は確実に明治に移っていたのでしょう。
日本人の外見や容貌、服装、衛生状態や風俗習慣についてかなり辛らつな評価も散見されますが、女性一人の旅でも危険を感じることがなかったこと、盗難などを心配する必要もなく皆、金銭にも清廉で、チップを受け取らない宿屋の女将や誠実で献身的な馬子たちに対する好印象も述べられています。
イザベラは大の子供好き
バードは非常に子供好きだったようです。沢山の菓子を持参して、行く先々で子供たちに配りますが、その際、その子たちが必ずそれをもらってよいか親の許しを得ること、もらった後必ず深々とお辞儀をして感謝の言葉を言うこと、決して奪い合いをせず、菓子を年長の子に与えるとその子が年少の子に先に分け与えて、皆で仲良く食べることに感心しています。
またこの旅の間、赤ん坊の泣き声を聞いたことがないこと、子どもの喧嘩やいじめ、親から体罰を受ける子供を一度も見ることがなかったと記しています。
当時の欧米においては子供に対しては体罰でしつけることが当然でした。ハイジの学校でも、トムソーヤーの学校でも教師はムチを片手に教壇に立っていましたね。
当時の日本は非常に貧しく不衛生な環境でしたが、そのような環境でも礼儀正しく、幼長の序を重んじる子供たちのことを好印象を持って記録しています。
本州最北の青森で水害に見舞われる
今回はその中で、特に青森の碇ヶ関(いかりがせき)の子供たちと黒石(くろいし)で滞在中に訪ねてきた学生の話を紹介します。
秋田の矢立(やたて)から青森の碇ヶ関(いかりがせき)に入る際、この地域は水害に見舞われ、バード一行も崖崩れや増水による氾濫、流木によって橋が流され平川(ひらかわ)の対岸に渡れない状況に陥ります。
雨の小康状態を見てようやく浅瀬を渡河し、ほとんど命からがらずぶ濡れの状態で碇ヶ関の町に入ります。19あった橋のうち2つしか残らなかったと後に宿で情報を集めて被害の状況を書き記しています。
旅のもう一つの目的は日本の情報収集?
バードは到着した町で必ず伊藤を通じて町の人や警察、役人からその町の人口や産業の情報を子細に集めています。
当然ですが、これは彼女の旅の目的の一つでもありました。ただの観光旅行ではなかったのです。
バード一行は碇ヶ関に4日間滞在しますが、この時の子供たちの様子をつぶさに見て次のように記しています。
以下は私の拙訳です。
地方に蔓延していた眼病と皮膚病
”当地の人々は私の施した目薬がきっかけで非常に親しくなった。そして多くの患者が私の診察を求めてやってきた。
しかし彼らの患いは彼らの着ている衣服や一緒に生活する家族の衛生状態を改善しなくてはどうしようもない。
石鹸がないこと、衣服を頻繁に洗濯しないこと、下着を着ないことなどが彼らの皮膚病の原因であり、その上、様々な害虫がこれを悪化させている。ここでは子供の半数が頭の皮膚にただれを生じている。
私は日本人の子供たちをいたく気に入っている。私はいまだに日本の赤ん坊が泣いているのを聞いたことがない。
問題を起こしたりぐずったりする子供を一人も見ていない。日本においては親孝行が一番の美徳であり、親に対する従順が何百年にも渡って習慣として身に着いている。
英国の母親たちが甘言や脅しによって子供たちに意に沿わない服従を強いていることはまだ知られていない。
私は子供たちが楽しみの中で自立心を獲得するという日本のやり方に感心している。
子どもが色々な遊びの中でトラブルがあった時、言い争いで中断するのではなく年長の子供の裁定に従うというルールを身に着けることが、家庭教育の一部になっているのである。
子供は自分たちだけで遊び、大人を煩わせることがない。私は普段菓子を持ち歩き、それを子供たちにあげるが、父親か母親の許しを得ないでこれを貰う子供は一人としていなかった。
貰った子はにっこり笑い、お辞儀をしてそこにいる他の子供全員に配ってから食べ始めるのである。なんともジェントルだが、形式ばって、早熟な感じでもある。
不思議なことに子供たちには子供用の特別な衣服がない。三歳になると彼らは着物と帯を身に着けるが、親と同様に、これは彼らにとって不自由な衣服である。このような服装で遊ぶ彼らはグロテスクである。
しかし私は一度も彼らが子供っぽい衝動にかられた争いや叩き合い、取っ組み合い、飛びかかったり、蹴ったり、叫んだり、他者を嘲笑したりしているところを見たことがない。ー中略ー
子供たちは輪になって座りながら遊んでいる。大人たちは熱心にそれを見下ろしている。子供への愛情はアメリカよりも日本の方がより普通であり、私が思うに日本の愛情の形が最高のものである。”
“Letter XXXVIII-(Continued) Scanty Resources-Japanese Children-Children’s Games-A Sagacious Example-A Kite Competition-Personal Privations. IKARIGASEKI.”
黒石での嬉しい来訪者
一行は8月5日黒石に到着します。
その時バードの逗留先に意外な来訪者がありました。弘前から来た三人の学生です。
前述したようにバード一行については警察などによって次の目的地に情報が届いていたと思われます。
弘前からやって来たの3人の学生
”三人のクリスチャンの学生が私に会いたいといって訪ねてきていると聞き非常に驚いた。
非常に知的な容貌をした身なりのきちんとした若者たちである。
皆少し英語を話す。その中の一人は私が日本で会った中で最も朗らかで知的な顔をしていた。彼らの顔立ちと立ち居振る舞いから士族階級(samurai class)の若者であることが分かった。
彼らはこの家に英国婦人が逗留していることを聞きつけてやって来たとのこと。そして私がクリスチャンであるかをしきりに尋ねた。聖書を持っているかと私に訊いて、私が聖書を取り出すとようやく満足した。
弘前はここから三里半(3.5ri)の重要な城下町である。元藩主が高等教育の学校を支援しており、二人のアメリカ人が続けて校長を務めている。30人の敬虔なクリスチャンと同様に、私を訪ねた紳士たちは熱心なキリスト教徒で、クリスチャンの生活様式に従って生活している。
皆よく教育されており、何人かは官立学校の教員試験にも受かっているようだ。彼らの新しい生き方がこの地域の未来に重要な意味を持っている。”
“Letter XXX A Lady’s Toilet-Hair-dressing-Paint and Cosmetics-Afternoon Visitors-Christian Converts. KUROISHI, August 5.”
バードの逗留先を訪問したこの三人の若者は設立されて間もない東奥義塾(現東奥義塾高校)の学生でした。
この前年に東奥義塾はアメリカに5名の留学生を送っています。文明開化の波は急速に日本の地方都市にも及んでいたようです。
黒石の町が気に入るイザベラ
バードは黒石で「七夕まつり」(伊藤鶴吉は「ねぷたまつり」を知らず、これを「七夕まつり」と紹介したと思われる)を見物しその美しさに感銘をうけています。またバード自身も着物を着て目立たぬように結婚式(祝言)の様子もつぶさに観察して、花嫁の美しさが大変印象深かったようでそのことが子細に記されています。黒石が非常に気に入ったようで、ここには特に時間をとって数日間滞在しています。
以上、イザベラ・バードの日本旅行記のほんの一端を紹介しました。
この後、バードは北海道に渡り、アイヌ部落に入りこの著書の大半をアイヌの精緻で詳細なリポートに割いています。これも非常に興味深い。アイヌを最初に海外に知らしめたのがバードでした。
“Unbeaten Tracks In Japan”は非常に面白い内容です。簡潔で非常に読み易い英語で書かれているため通訳案内士を目指す方だけでなく、どなたでも興味を持って読める一冊ということでお薦めします。
今回は以上です。
ご精読いただきありがとうございました。