その他雑記

【飛騨高山と広瀬武夫】 日露戦争の軍神が少年時代を過ごした城下町

「日露戦争」Russo-Japanese Warは欧米人が近代日本、明治期の話をする時、彼らがよく口にします。

「それは日露戦争の前、それとも後?」欧米世界にあって日本という国は日露戦争の勝利によって歴史舞台に登場してきた国という印象なのでしょう。

外国人が知っているのに当の日本人が知らないとは。

通訳案内士志望の方にとっては必須の日本史上の人物です。


テレビドラマ『坂の上の雲』で注目

広瀬武夫は戦前、日本において知らない人がいなかった日露戦争の英雄です。

唱歌「広瀬中佐」は戦前の日本人のだれもが口ずさんだ歌。

しかし戦後は一転、東郷平八郎、乃木希典とともに軍国主義の象徴として公の場から姿を消された男。

2009年から足掛け三年にわたって年末に放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』でも出身地である大分の「竹田のお祖母ちゃん」について言及したセリフはありましたが、彼が少年時代を過ごした高山や飛騨の事は一言も登場しませんでした。

彼の祖母をはじめ、身近な縁者や兄弟、友人は高山に住んでいたにもかかわらずです。そういうことで、今回はあえて飛騨高山における広瀬武夫にスポットを当ててみました。


広瀬武夫の胸像

高山市内の中央部にある小高い山、高山城址にある城山公園。
その入り口の前を右手に進み左手にある「照蓮寺」を過ぎると高山市街を見下ろす小さな広場「中佐平」があります。

ここに広瀬中佐の胸像があります。以前から一度訪れてみたいと思い、妻と一緒にお参りしました。美しい落ち葉の降り積もる晩秋でした。地元の方が散歩されていて、声を掛けていただき広瀬と高山についていろいろな話を教えてくださいました。

最初の銅像は日露戦争の直後、バルチック艦隊との決戦の翌年、明治39年に建てられています。

戦前、飛騨地域の若者は城山公園の麓にある飛騨護国神社にお参りした後、皆でその銅像の前で必勝を祈願して出征したそうです。

しかしその銅像も大東亜戦争で供出。現在のものは戦後に復元されたものです。

出生地の大分県竹田市には立派な「廣瀬神社」も資料館もあるそうですが、今、高山で直接広瀬武夫を偲ぶものはこれだけです。

今回の帰りは城山公園に立ち寄って、妻と二人で夕暮れの高山市街を眺めながらおでんを食べて帰りました。


ー城山公園、中佐平の広瀬中佐像ー


生まれ故郷は大分の竹田

広瀬武夫は慶應4年(1868年)現在の大分県竹田市に生まれました。
父重武は岡藩士。勤皇思想の人で、維新後は官職につきます。

7歳の時に武夫は母を失い、その後祖母智満子(ちまこ)から徹底した武士道の教育を受けます。

彼の清廉で豪胆、快活な人格形成にこの智満子から受けた教育が大きな影響を与えているようです。


戦火で家を失い高山へ

明治十年の西南戦争で竹田の町は戦火に見舞われ、広瀬の家も焼失します。
一家は父重武が裁判所の判事として赴任していた飛騨高山に転居します。
武夫10歳の時です。

母を失い、戦火に見舞われ住む家を失い、父を頼って暖かで住み慣れた竹田に別れを告げて、見ず知らずの遠方の寒冷地、高山への旅。

気丈な祖母に連れられての旅ですが鉄道も自動車もなかったその時代、小さな武夫はどんな思いで歩いてきたのでしょうか。


第二の故郷、高山

彼はこの後、17歳の時に海軍兵学校を目指して東京の攻玉社に入学するまでの少年時代をこの地で過ごします。武夫にとって高山は第二の故郷です。

私は何年か前、高山市の教育委員会が主催した広瀬武夫についてのセミナーに参加したことがあります。その時の参加者のお一人が、「多感な少年時代を過ごした高山が広瀬の人格形成に大きな影響を与えた」旨の発言をされていましたが、私もその通りかと思います。

広瀬一家の住居は現在の高山日赤病院の近く、「一本杉白山神社」のすぐ前にありました。現在は空き地で駐車場になっており、昭和10年に建てられた石碑が残っています。

「軍神廣瀬中佐居住地址」と刻まれています。このすぐ左手に一本杉白山神社があります。山岡鉄舟が高山で少年時代を過ごしていた頃、この白山神社に隣接した道場で剣術修行に励んでいました。


〈一本杉白山神社〉この境内で武夫は雪合戦などをして友だちと遊んでいたようです。


煥章学校時代

広瀬は高山の煥章(かんしょう)学校(現在の高山市立東小学校。広瀬はここの卒業生になっています。)に学び、卒業後は数か月ここで教職についていました。

煥章学校は学制が施行されてすぐに造られた当時珍しいフランス式の洋風建築でした。2004年にこの煥章学校をほぼ完全に模して同じ立地に高山市図書館「煥章館」が建てられました。


ー高山市図書館「煥章館」-


柔道と初恋?

広瀬はのちに講道館で柔道を学びロシアの駐在武官時代に彼の地に柔道を紹介しています。ロシアの大男たちを投げ飛ばして一躍社交界の人気者になった話は多くの本に書かれていますが、彼が柔道を始めたのも高山です。
稽古の後、柔道着のまま老舗料亭の「洲さき」で食事したという逸話が書かれた本も読んだことがあります。当時の「洲さき」のお嬢さんが硬派広瀬の初恋の人だったという噂?もあります。

「洲さき」は高山陣屋の近く、中橋のたもとに今もあります。


読書家の武夫とロシアでのロマンス

また非常な読書家で家にこもって本を読むことも多かったようで、冬に友だちが外遊びに誘いに行くと「本を読んでいるから行かん。」という返事。

武夫の性格を逆手に取った仲間が「寒いのが嫌で外に出たくないんだろう。」というと「何を言うか」と怒って外に飛び出して遊びに加わったということもよくあったようです。

ペテルブルク駐在武官時代のアリアズナ・コヴァレスカヤとのロマンスは非常に有名ですが、彼女はそのサムライ然とした立ち居振る舞いと広瀬の文学的素養に惹かれたという話もあります。
高山での少年時代の読書がそのような性向を形成したと言えるかもしれません。


筆まめだった武夫

また彼は非常に筆まめな人で生涯に約2000通の手紙やはがきを書いたといわれ、その大半が現存するらしいです。

旅順港閉塞作戦で戦死した後、すぐに国民的英雄になったため知己の人は当然沢山存命していたわけで、家に広瀬からの手紙があった人は家宝のようにそれを大切にしたからでしょう。

前述の高山市教育委員会のセミナーでも自宅で大事に保管している広瀬からの絵はがきや手紙を持ってこられた方が何名かおられました。いずれも広瀬の縁者、同級生、友人のご子孫でロシアから送られた絵葉書をお持ちの方もおられました。

「ロシア人はウラル山脈の景色を自慢するが高山で北アルプスの景色を毎日見ていた俺からすれば大したものではない。」そんな感じの内容だったかと思います。

幼馴染、級友も高山や周辺の飛騨地域に住んでおり、海軍兵学校時代には足を延ばして隣町の金桶小学校に勤務する級友を訪ねています。当時はまだ鉄道も通っていませんでした。高山線が開通するのは昭和8年のことです。

武夫は脚力を鍛えるために毎日この城山公園を走っていたらしく、兵学校時代の健脚エピソードや講道館での逸話の基礎は高山での少年時代に培われたものだったのでしょう。


再び訪れた父との別れ

こんな広瀬武夫の高山での生活ですが、私が一番心惹かれるのは武夫の父重武が岐阜に転任する時のエピソードです。

汽車も自動車もない時代です。父の乗る駕籠(なんとかごです。)に伴って武夫は下呂方面の小坂(おさか)まで父を見送ります。しかし小坂で父と別れた後もよほど偲び難かったのでしょうか、少し離れてとぼとぼと父の駕籠についていきます。

しばらくしてこれに気付いた父に武夫は自分も一緒に岐阜に連れて行ってくれと泣いて懇願します。しかし父重武は祖母や兄弟のために高山に残れと懇々と息子を諫め諭します。

父親も涙、息子も涙です。

高山と小坂の距離はおよそ30キロほどでしょうか。父と別れて一人、悄然として高山の手前の宮峠を上り、下り、とぼとぼと高山の家に帰り着いた武夫は人目もはばからず縁側で号泣したそうです。

7歳での母との別れ、父のいない生活、ようやく皆で生活できるようになったのも束の間、また父との別れ。

そしてその後のロシアでの恋人アリアズナとの別れ。

快活、豪胆な性格のイメージが広瀬に対してありますが、彼の胸にはいつも淋しい、物悲しい風が吹いていたのではないでしょうか。
私の想像ですが。


旅順港外での戦死

旅順港(Port Arthur)閉塞作戦で杉野兵曹長を捜索するため福井丸に戻る武夫の胸には同じような思いがこみ上げてきて、あのような行動をとらざるを得なかったのではないでしょうか。

ドラマ『坂の上の雲』では親友、秋山真之役の本木雅弘が広瀬中佐戦死の報を受けて戦艦「三笠」の自室に帰って号泣するシーンがありました。

広瀬戦死の報を聞いた講道館の恩師加納治五郎は人目もはばからず男泣きしたそうです。

アリアズナは広瀬戦死の報を受けて喪に服したそうです。

私は広瀬の最期を知った三人の事と合わせて、少年武夫が父と別れた後、高山の家で号泣したその情景が重なって不憫な思いにかられます。


唱歌『広瀬中佐』

広瀬武夫が高山を離れた後の事や旅順港外での最期の様子は多くの本やドラマで描かれているのでここでは取り上げません。

唱歌「広瀬中佐」の歌詞がそれを最もよく表現していると思いますのでそのまま載せます。

文部省唱歌「広瀬中佐」
歌詞:作者不詳


轟く砲音 飛び来る弾丸
荒波洗うデッキの上に
闇を貫く中佐の叫び
「杉野は何処 杉野は居ずや」

船内隈なく尋ぬる三度
呼べど答えず さがせど見えず
船は次第に 波間に沈み
敵弾いよいよ あたりに繁し

今はとボートに 移れる中佐
飛び来る弾丸に たちまち失せて
旅順港外 恨みぞ深き
軍神広瀬と その名残れど

高山は山岡鉄舟、広瀬武夫の二人が時代を少しずらして少年時代を過ごした町です。当時を偲ぶ建物も数多く残っています。旅する際はぜひ両人の少年時代に思いをはせて街歩きを楽しんでみてはいかがでしょうか。


今回は以上です。

ご精読いただきありがとうございました。

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