その他雑記

自衛隊に興味があるなら、まずこれを読め!テレビ番組で観る自衛隊の訓練などは茶番であり、実像ではない!あれは「お遊び」だ!ガチの自衛隊の訓練にテレビ局のスタッフは同行できない、体力的について来れないのだ!自衛隊でしか経験できない「炎天下の行軍」あまりにも強烈で今でも昨日の事のように覚えているぞ!

私が自衛隊に在職していたのはたったの1任期2年ですが、濃密な時間だったため、なぜか10年ぐらいの長さに感じます。

私が所属していたのは普通科(歩兵)の部隊ですから、当然「行軍」の訓練がありました。

「行軍」という言葉自体は誰でも知っていると思います。軍隊での部隊の移動方法の一つです。
何千年の歴史の中でも基本的に軍隊の移動は徒歩あるいは騎乗、船、馬車、戦車(ローマの)によるものでした。

私の所属していたのは機甲師団でしたから演習場へはほとんどの場合、装甲車両に乗って移動します。

しかし現代でも徒歩やスキーによる行軍は普通科(歩兵)だけでなく陸上自衛隊にとって大事な基本の訓練で必ず年に何回か実施されます。

通常は演習中の移動訓練として行われます。私も自衛隊生活で新隊員教育の期間も含めて何度も行軍の経験があります。

最初の行軍は新隊員の前期教育での練馬駐屯地から朝霞の戦闘訓練場までの「都会の中の」行軍でした。

国道254号(川越街道)沿いの歩道を歩いての10キロぐらいの「ゆるい」ものでした。
その後は東富士演習場で、部隊配属になってからは機関銃手や無反動砲手としての行軍も何度か経験しました。

しかし、その中でも一番鮮明に記憶に残っているのが、北海道に移って新隊員の後期教育で経験した夏の炎天下での行軍です。

「行軍」いうと「歩いて移動するだけなんでしょ。」と思われがちです。
戦記物の書物を読んでも日露戦争や日中戦争、太平洋戦争でのマレー作戦、インパール作戦、ポートモレスビー攻略作戦等、沢山の行軍について書かれた本があります。
戦記文学においても火野葦平の『土と兵隊』や『麦と兵隊』などに当時の様子が詳しく描かれています。

この行軍というものが一体どのようなものなのか、私にはとても興味があったのです。自衛隊でしか経験できないことですから。

自分が自衛隊に入って「行軍」の経験をしてみて、初めて先人達がどんなに大変な思いをしたのか?どんな景色を見ていたのか?その体に、その肩に、その脚や足に何を感じていたのか、私もほんの一端ですがその経験を通して感じ取ることができました。

自衛隊では体力をつけるため「新兵訓練」で厳しいトレーニングをしますが、実はこれも「行軍に耐えうる体力」をつけるために他なりません。
普通の若い人にいきなり「行軍」をさせたら死者が出る可能性があります。これは誇張ではありません。

登山やハイキングで歩くのと何が違うのか?普通の人はそう考えます。

まず、身につける装備の重量が違う。

歩く速度が速い、進捗のペースが決められている。

当然の事ですが、飲み食いや休憩が自由にとれない。

しかも途中で戦闘訓練が入ったり。敵に遭遇したりする。

私は「冬季戦技訓練隊」という特別勤務(スキー訓練です。)で「プロムナード」いう訓練を経験したことがあります。

これは初冬の雪が降る前の体力錬成時にその仕上げとして60キロの距離を一度も立ち止まることなく歩き通すという訓練でした。
立ち止まってはいけませんから食事も水も歩きながら摂ります。立ち止まれるのは道端で用を足す時だけです。どんな器用な人でもこればかりは歩きながらできません。

でも実はこの訓練、足は運動靴、服装はジャージにウインドブレーカー、水や食べ物を入れたナップザックという「軽装」で行われました。
私達はこのような「装備」を「空身(からみ)」と呼んでいました。
「空身で走る。」「空身で歩く」といった具合です。


略称「冬戦隊」で毎日30キロや40キロの走り込みをしていた私たちにとって、この「プロムナード」は「ピクニック気分」の訓練でした。
もちろん早朝にスタートしてから日暮れまでずっと歩き通しですし、走るのとはまた別の違う筋肉を使うということで、ゴールする頃には腕も脚もまともに動かせないほど疲労します。

それでは実際の「行軍」ではどれ位の装備をつけるのでしょうか?

足には編み上げの半長靴、服装は当然戦闘服に偽装網、重さ1キロのヘルメット、1リットル入りの水筒、弾帯、サスペンダーに弾倉、背嚢に携帯円匙(スコップ)そして自動小銃。合わせると20キロほど。

最低でも灯油缶1つの重さを身に着けて歩くわけです。機関銃手や無反動砲手では灯油缶2つと考えればよろしいかとおもいます。このような装備で最低でも全行程30キロ、長い場合は100キロの行軍訓練をしています。

さて、この行軍経験の中で私の記憶に最も鮮烈に残っているのが、新隊員の後期教育での行軍です。

8月の初旬、北国、北海道でもその日は暑く、朝から雲一つない快晴。天気予報では30度越えの予想です。
熱中症(当時は熱射病)の不安が頭をよぎります。

全行程30キロの行軍。
駐屯地を出発した我々は隣接する滑走路を越えて、演習場に入ります。演習場内の道路は舗装されておらず、基本的にほとんど土の車道を歩きます。大変そうに思えますが、しかしこれが実は有難いのです。舗装された道路では脚への負担が全然違う。これは走るときも一緒です。

我々は道路の両側を左右に別れて、前を歩く隊員と10メートル以上の距離を取りながら二列縦隊で周囲を警戒しながら行軍していきます。

歩幅75センチで1分間に120歩のペースで進んでゆきます。これが自衛隊の歩行ペースの標準です。一時間におよそ4~4.5キロ程のスピードで歩く計算です。

50分歩いて10分間の小休止をとります。

朝からの炎天下、強い日差しでヘルメットがもう熱くなっています。体中から汗が噴き出しているのが分かります。額から流れる汗が目にしみて痛い。

背嚢や銃の負い紐が肩に食い込んできます。それにしても、まだ朝なのにもうすでに暑い、しかもどんどん気温は上昇してきます。演習場の道路に日陰はありません。
演習場に入ってなだらかな登りが続いていましたが、やがて道は稜線上をくねくね進むアップダウンに入ります。

これは経験者はご存知かとおもいますが、自衛隊では平坦な道など歩かせてはくれません。東京の人であれば想像しやすいと思いますが、神楽坂や九段の坂、権之助坂のようなアップダウンが連続します。途中の最高点は標高200メートルほどの高さです。眼下に遠く出発した駐屯地が見えます。

2回目の小休止までは皆まだ大丈夫で軽口をたたける余裕もありましたが、3回目の小休止頃からは皆もう息が完全に上がって肩で息をしています。ここまでほとんど上り坂ばかりで心臓がバクバク。耳の近くを流れる血の音が聞こえる程です。本当にマジで上り坂がきつい。そしてとにかく暑い。暑すぎる。

区隊長はここで戦闘服の腕まくりを隊員に指示。ファスナーをおろして首回りの通気を良くするようにとのこと。
給水許可も出ました。こういう行軍訓練では水も自由に飲めません。

「水筒の蓋一杯分飲んで良し。」

「蓋一杯分? 5cc?  冗談でしょ。」と皆がびっくり。苦笑して顔を見合わせます。

「お前らが腰につけている水は自分のものだと思うなよ。それは戦友に飲ませる死に水だ。」とニヤニヤしながら班長。

「まさか、お前らここまで勝手に水飲んでないだろうな? 飲んだヤツの水筒はタプタプする。今からチェックする。」
と1人1人水筒を振らせる。すると一人だけたっぷんたっぷんと音がした。

「お前勝手に水飲んだな。よし、腕立て伏せ50回やれ。」

こういったところが自衛隊らしい。

あまりの暑さに副区隊長が水缶(ポリタンク)を持ってきて、

「みんな鉄鉢(てっぱち。ヘルメットのこと。)を脱いで頭を出せ。」

と言って皆の頭にポリタンクの水をざっとかけてくれる。冷たくてなんとも気持ちがよい。生き返る思いだ。

隊員思いの優しい副区隊長である。

「今日はちょっとヤバいな。」と副区隊長。

さすがに経験豊富な副区隊長もこの暑さには少し不安げな様子。

出発時に区隊長は「一人の落伍者も出さない。全員で帰ってくる。」と言っていたが、この頃になると私も「この暑さじゃとても全員はもたない。自分ももう脱水状態だ。」と不安が頭をよぎる。

さすがに区隊長も「水筒の水、3分の1まで飲んでよし。」との指示を出します。

でも実際これじゃ渇きは癒えないし、全然足りません。

小休止終了で行軍再開。
30分ほどすると私は前を歩く同期のYの異変に気付きました。

Yは少し以前から遅れかけてはハっと気付いて小走りで前に追いつく。
道路のちょっとした轍の段差につまづいてよろめく。

そんな様子が度々見受けられました。

「教本に書いてある熱中症の兆候だ。」

「Y! 大丈夫か?」と後ろから声をかける。

Yは振り返らず右手を上げて大丈夫だと応答する。懸命に足を進めていました。

私自身もこの暑さにも拘わらず少し前から背中にゾクゾクと寒気を感じていました。

これも熱中症の兆候です。

次の小休止。心配になった私はYに声をかける。

「お前、大丈夫か?」

背嚢も降ろさず座り込んだYの視点、焦点がどうも定まらない。キョロキョロしている。しかもガタガタ震えている。暑いのに震えている。私もこのような症状の人を生まれて初めて見たので動揺しました。
Yが死ぬんじゃないかと不安になり、大きな声で班長に「班長来てください。Yの様子が変です。」

Yの様子を見た班長、こちらが拍子抜けするような平静な顔で、

「おう、Y、大丈夫かお前?」
「ええ、大丈夫です。」と懸命に返答するY。

私は心の中で「Y、班長に無理だと言え。お前死んでしまうぞ。行軍を続けるのは絶対無理だ。」

しかしYは続行する様子。

Yは九州男児。体は大きくないが寡黙な頑張り屋です。それまで彼とはほとんど話したことがありませんでした。
行軍の最後尾には本部管理中隊のアンビ(自衛隊用語。ambulance. 救護車)がつけている。それに乗せてもらえば良いのだ、「無理です。」といったらこの苦しみから解放されるのだぞY。

班長は「ここからは下りだ。少しは楽になる。どうしても無理そうだったら言え。」

「え?止めないの班長?Y死んでしまうかも。」と心の中で私。

再び立ち上がり、歩き始めるY。

班長の言ったように峠は確かに越えた。なだらかな下り坂が続く。少し体が楽になった。班長はこれを知っていてYに行軍を続けさせたのだろう。

苦しいからといってY自ら隊列から離れるわけにはいかない。
考えてみれば当然のことでした。戦時であれば部隊から一人で離脱することは死を意味します。どうせ死ぬのなら皆と同じ場所で死にたいと考えるでしょう。

「仲間は決して見捨てない。全員で任務を遂行する。」
これが自衛隊が一番大事にしていることです。何度もこれを聞きました。

彼がアンビに乗ってしまえば本人も楽だし、心配しているこっちも気が楽になる。そう考えた自分の思考が浅いと反省しました。

自衛隊は武士(もののふ)の集団です。有事であれば仲間の誰れかが斃れる状況は常に想定していなければなりません。いつもそんな状況と背中合わせで行動しなければならない。そんな班長の思いに気付けなかった自分を歩きながら深く反省しました。

そんな行軍もようやく終盤です。暑さと日差しのピークも過ぎました。あと数キロで演習場内のAPC(Armored Personnel carrier装甲兵員輸送車)の渡河訓練場につきます。そこで遅い昼食をとって大休止。後は駐屯地まで帰るだけの平坦な道のりです。

しかし、なんとその手前2キロほどで過酷な鬼の指示が出されました。

「ハイポート! 駆け足始め!」
え!? 走るんかい!しかもハイポートで。

「ハイポート」とは銃を斜めに胸の前で掲げて走るあれです。しかも我々はフル装備です。

昼食前の最後にこれをやらせるとはまたこれも自衛隊が大好きなサプライズです。

息を吹き返したYも懸命に走る。しかしヘロヘロ。当然遅れる。
もうみんな隊列なんかどうでもよくなる。バラバラです。

渡河訓練場はどこだ? まだか? もう倒れそう。

やっと渡河訓練場に到着。
そこで一時間程の大休止、昼食。ああ助かった。

死なずに済んだ。

何を食べたかは全く記憶にありません。
ただ、昼食を食べた後の米粒のついた飯盒で何杯も水缶の水を飲んだことはハッキリ覚えている。

これまで一度にあれほど大量の水を飲んだことはありません。

一体何リッター飲んだのでしょうか?私も完全に脱水状態でした。
一息ついて木陰で仰向けになって見上げた木の葉と青い空の景色が昨日のことのように鮮明に記憶に残っています。

この行軍が終わって数日後、終礼の後でなぜか背嚢を背負った装備で帰隊した班長に廊下で会いました。

そういえば班長、今日姿を見かけなかった。

「その恰好で今日は何してたんですか?」疲労している様子の班長に声をかけます。

教育隊の時の班長はこれまでも度々登場している空挺団出身のT3曹でした。

「Oと二人で行軍のやり直しをしてきた。」

実は同期のOはあの時の行軍でYが大変だった時、「もう歩けない』と言って行軍訓練から離脱してしていたのです。
そのことは行軍が終わった後で知ったことです。

「うちから落伍者は出さない」と区隊長は言っていましたが、私たちにとってそれはもう終わった話でした。あの日のような条件では仕方が無いことと誰もが思っていました。

Oにしてみても、彼の日頃の性格、態度から考えると救護車に乗せられた段階で「もう歩かなくてもいい。俺の行軍訓練は終わった。」と思ったはずです。

区隊長はおそらく、それではOが「自分だけ行軍を完遂出来なかった。」と負い目に感じてしまうと思ったのでしょうか?
それとも上官としての言行一致を貫いたのでしょうか?
あるいは区隊長としてのプライドが許さなかったのでしょうか?
はたまた「自衛隊はそんな甘いところじゃない。」とOに思い知らせようとしたのでしょうか?

しかも「Oにもう一度やらせて、任務を完遂させる。」とは我々新兵の誰にも言いませんでしたし、O自身も誰にも「やり直し」のことを話していなかったのです。

Oも班長もその日いなかったのは皆知っていたが、まさか同じコースをもう一度やり直していたとは誰も想像していませんでした。

ちなみにあの時、他の区隊でも数名の落伍者を出していました。しかし行軍のやり直しはしていませんでした。

次の日、Oが妙に晴れやかな顔をしていたのを覚えています。

だいぶ昔の事になってしまいましたが、今でも夏の炎天下の白い道やテレビで甲子園のグラウンドを見るとあの時の行軍のことが昨日の事のように蘇ります。


今回は以上です。
ご精読いただきありがとうございました。

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